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連載 関勉の星空ノンフィクション劇場

 

- ホウキ星と50年 -

 

第13幕 ホウキ星余談

 

 陽気な季節となり、じめじめとした梅雨が近くなると、そろそろ怪談が幅をきかせ始める。これから語るのはホウキ星余談とでも申そうか、余り学問的な話ではないので、興味の湧かぬ方はさらりとお聞き流しいただきたい。

 海野十三が、その名前(十三)と同じ13歳で、かのハレー彗星と遭遇したことを知ったとき、偶然にも私の父と同じ年であることを知った。父亀寿は若い頃砲兵として善通寺の第11師団に入隊したが、その間シベリア出兵があっただけで、どちらかと言うと平和な時代だった。海野氏は、その小説の中でモーロー彗星を登場させたが、ハレー彗星のことは語られていない。しかし少年のころ、ハレー彗星の地球大接近によって体験したと思われる事柄が、度々小説の中に登場するのである。例えば”火星兵団”の中で、彗星と地球の衝突が必至と目されたとき、世間が騒ぐ中で、人類が無事生き延びるための手段として、とんでもない商売(地球が壊れても落下傘で降りればよいとか、或いは潜水艦に乗っておれば天地がひっくり返っても安全とかいった)がはびこったことが描かれているが、明治時代としては、こうした子供だましとさえ思われることが、まことしやかに通用したかもしれない。
 私が読んで面白いと思ったことは、明治43年5月20日付の東京朝日新聞の広告に”霊薬ゼム”という薬の宣伝が出ていた。かなりの広いスペースを使って、『ハレー彗星衝突の恐怖から逃れたいなら霊薬ゼムを飲め』というものであった。同日の紙面はハレー彗星接近の緊張した多くの記事のある中で、屋根の上や巷のあちこちで、多くの人達がいぶしガラスや単眼鏡を持って、ことごとく九天を仰いでいる。そんなとき杖を突き、腰をかがめた老婆が近づいてきて、『なんぞ見えますかね、スイセインとやらは出ましたか?』と聞いて一同の爆笑を買った、と言う風景がカットで取り入れられたりして、緊張の続く紙面の中に、何かホッとするような弛緩をかもし出している。また迷信も相当にはびこったらしく、同年3月2日付の同紙に”彗星と牡丹餅”と題して『南向きの鳥居のある神社を探せ!そして3合3勺の餅米で牡丹餅を製して祭り、1個を残してこれを食えば、血の雨の災厄からのがれられよう』という迷信を信じて、埼玉県下の千形神社と高城神社(即ち鳥居が南向いている)に長蛇の列が続き、すこぶる奇観を呈している、という甚だ珍奇な記事が出ている。この件について同県に住む私の友人で歌手でもある鈴木健夫君に調べてもらったら、2つの神社とも健在で、高城神社にはお百度石的な”星の宮”と書いた小さな祠が、今も境内にひっそりと残っているとのことであった。しかし、この迷信を流行らせたのが、何と県下の餅屋であったとか。災難にも商売はつきものと見える。しかし、少し気になることは、この記事の中で、明治29年頃、同様のことが起こったときには餅屋は随分もうかったが、今回は多くが自家製の餅なりし故、大してもうからざりき、と餅屋はこぼしけれ、とある。明治29年(1896年)何か天象に異変があったのであろうか?ともあれ、明治時代には、こうした類の下らぬ迷信を信じて、犠牲になった人が如何ばかりあったことか。海野十三の”火星兵団”では、こうした時代の人間達の不安や奇怪な行動が、そのまま語られているのである。
 当時の新聞で目に付く記事をもう少し拾ってみよう。”横浜の大火六百余戸焼失”(3月20日付) ”火星の人類と運河” 3月25日付の紙面でローエル天文台の活躍を紹介し、火星に大規模な運河(全長1千里)が竣成したことを報じ、ローエル博士が火星に高等生物がいることが確実になったといった、とある。”ハレー彗星観測隊出発”(4月11日付) ”東京天文台の早乙女理学士ら一行が満州に出発”。”ハリー彗星に対する迷信”(5月20日付)泊林電報によると地球がハリー彗星の尾に包まれるのは、ドイツより見れば19日午前5時42分より始まる訳なれば、欧州においては非常に注意を惹き、イタリーにては地球滅亡の機至れるを恐る迷信盛んにして、かつローマ法王の救いを求めつつあり。パリー及びキョルン(ライン河畔)においては、当日朝カーニバル祭を行う準備中なり。彗星の尾の長さは目下60度なり。されどキイル天文台にては地球に何らの危機をきたさない旨発表せり。なお通過後の彗星は宵の明星として現るべく、21日に至らば極めて明瞭にこれを見るを得べし。以上のほか彗星接近に歩調を合わせて、天文書や星座早見盤の宣伝が多く見られるが、流石テレスコープの宣伝は1件も無い。
 1910年のハレー彗星は人間に何の危害を加えることなく去った。海野氏の小説中に登場するモーロー彗星も、当然ハレー彗星に習って地球との衝突を回避させなくてはならないのだが、海野は、その解決になんと月の摂動を利用したのであった。つまり2体問題では正しくぶつかるべきものが、3体問題の応用によって、その解決を計ったのである。しかし実際に月の引力が彗星の軌道を変え得べきものか否か現実には疑問も残るが、小説としてはまことに科学者らしい見事な発想であった。海野氏と同輩の父の見たハレー彗星であるが、1910年の5月中旬頃のある日外に出てみると、何人かの人が『いま地球がハレー彗星の尾の中を通りよる』と言って、気でも狂ったかのように踊っていたという。夜になると一条の長い光線が天を貫き、ある人は土佐沖に停泊中の軍艦のサーチライトだ、とも主張していたと言う。日ロ海戦の勝利から5年、日本の連合艦隊は日本近海において堂々のデモ航海を行っていたのである。

 父は91歳まで生きて、当然ハレー彗星を2回見るべき運命を背負っていたが、1986年の回帰のときには長い病の床にあって、ついにそのチャンスに恵まれなかった。しかし、その父からよく星の話を聞かされた。
 父は高知市の西のはずれの米田という村の出であるが、明治時代に隣の村の豪農の一軒家に2人組みの強盗が押し入り、一家8人の中7人が惨殺された。5月のむし暑い初夏を思わせる晩で、空にホウキ星が1つ不気味な尾を引いてかかっていたと言う。強盗犯の一人は、犯行後山越えに隣の村に逃げたが、途中で茶屋に立ち寄って餅を食っていた。すると店にいた少年(知恵遅れだったが愛嬌があった)が、何がひらめいたのか急にその男に詰め寄って『お前さん、ゆうべ人を殺したろう』と言った。驚いたのは犯人である。顔面蒼白となり、逃げ出そうとしたところを近くにいた相撲取りが捕まえた。懐から血染めのタオルが出てきたので、いよいよ怪しいということになって、近くの交番に連行し警察も初めて事件を知ったという。ラジオも電話も無い時代のことで、虫が知らしたとは、この様なことであろうか。
 この強盗殺傷事件で、腕に重傷を負いながらも、ただ一人生き残った子供がいた。時代は昭和に移って、その人の次男が私の家に遊びに来るようになった。ギターが縁で知り合ったが....I君は仲々の文才で詩人だった。1950年代には共にギターの演奏会を催したこともあった。彼は星にも興味があって、私が度々語る彗星に特に興味を抱き、こんな詩を詠んでくれた。

        彗   星
 永遠の瞬間を旅するもののこと
 何もかも青い海のなかに泳いで行ったよ
 ボロボロの貝がらを渚に残して

 この詩は恐らく彗星と共に流星をイメージしたものであろうが、私には永遠なるものの淋しさと人生のはかなさを想わせるのである。

 さて怪談と言えば私の祖父(母の父)が話好きで、夕食後のひととき遊びに行くと、まるで講談師の如くいろんな昔話をしてくれた。それは忠臣蔵に曽我兄弟、岩見重太郎といった人たちの仇討ちや武勇伝が多かったが、中には阿波の徳島十朗兵衛の、涙の哀話まで巧みな口調で、火鉢を手や火箸で叩いての擬音を交えながら聞かしてくれた。話は身近に起こった人魂や狐火の如き怪談もあったが、中には聞き捨てならぬ自然現象、例えば北の四国山脈の夜空に虹色の雲を見た(オーロラ?)とか、或いは午後の高知市の西空に蜃気楼を見た。それは広い練兵場の様な所を騎兵たちが走っているのが逆さに映った、という興味深いものであった。事実高知市の西に歩兵第44連隊の練兵場があった。1950年代に、この現象は高知県のあちこちで見えると言うので1つの流行を見た。高知空港付近で見えた蜃気楼について、バスの案内ガールもガイドするほどの人気だったが、最近は全く聞かなくなった。私が小学3〜4年生のころ、九州で不知火というのが”少国民新聞”で度々報道され、それを扱った小説まで登場したが、その事件は今はどうなたのであろうか?このほか祖父から聞いた不可解な多くの昔話があるが、恐らく私の代で永久に消えていくであろう。

 今回はいささか余談が過ぎて天文と関係ない話だとご叱責を受けるかも知れぬが、こうしたお年寄りの昔話には捨てがたいものがあり、私一人の胸にしまっておくのが惜しい気がしたので、あえて無駄と知りながらもお聞き願った次第である。
 さて次回は正道にかえって、”追憶のカニンガム彗星”である。



Copyright (C) 2000 Tsutomu Seki. (関勉)