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連載 関勉の星空ノンフィクション劇場

 

- ホウキ星と50年 -

 

第10幕 ああ”岡林・本田彗星”

 

 マースデン博士が編集発行した「Catalogue of Cometary Orbits」の1986年版を見ているとき”Okabayasi-Honda 1940V”の発見記録を見つけた。同書によると岡林・本田彗星が発見されたのは1940年(昭和15年)10月1日の早暁のことである。

 神戸出身の岡林滋樹氏は、当時原澄治氏の管理する倉敷天文台で仕事をしていた。すでに射手座新星発見の経験を有する岡林氏は、早くからホウキ星にも興味を持ち、天文台の構内で盛んに捜索活動を行っていたのである。
 当時日中戦争に突入していた日本は、大陸でいつ果てるともない戦いを繰り広げ、中国を援助していた米英の両大国と、最早開戦は避けられない運命にあると目されていた。そうした大変不安定な世界の情勢下にあって、なおも天文学に情熱を燃やしつづけ、ホウキ星の探索に余念なき2人の若き日本人がいたのである。
 1940年10月1日、コスモスの一面に咲き乱れた倉敷天文台の庭に、オットウェー製の口径75mmの屈折望遠鏡を立て、岡林氏は熱心に東の空を捜索していた。時刻は、午前4時30分を回ろうとしていた。倍率は30倍、秋の夜露に濡れた筒先が、はるか東方の地平線上を僅かに白く染めた岡山市の光の中に吸い込まれたとき、突然白くモーローと輝く天体を捕らえた。ハッと息を飲んだ岡林氏は、その天体が明らかに獅子座の大鎌の中であることを確かめた。そして熱心にスケッチを取っている間に、何時の間にか薄明が忍んで来て、ついに彗星らしい天体のモーションを確認することができなかった。当時はモーションを確かめるのが原則とされていた。そして、翌日は雨......。
 そのころ本田氏は広島県瀬戸村に在住していた。ここには山本一清博士のつくられた「黄道光観測所」があって、本田実氏は主に黄道光の観測に従事されていた。ホウキ星の捜索は、その余暇に行われていたと見られる。当時瀬戸村は星の美しい場所であったと言う。本田氏はその頃、口径15cmの坂本鏡を使用されていた。この鏡面は今も倉敷天文台の記念館に残されている。この名鏡で1940年の9月中旬南天を移動する非常に早い彗星らしい天体と遭遇されている。1949年頃、本田氏から戴いた手紙の中に
 高知の冬は春のようにポカポカと暖かいそうでうらやましく思います。こちらは中々寒いです。でも星の輝きは無類に美しいものがあります。朝早く観測の仕事をしていると、一番列車の轟々たる響きが山越に聞こえ、この寒空に頑張っているのは自分一人でないことを知って急に心強くなります。
 というのがあって黄道観測所時代の本田氏の一面が伺えるようで面白い気がする。
 さて、1940年10月の彗星発見であるが、本田氏が同じ天体をキャッチしたのは多分10月3日頃ではないかと思う。この日の朝、村役場から倉敷に電話を入れたとき、岡林氏が同天体の確認作業中であったと聞く。こうして2人の日本人による彗星発見が成立したわけであるが、恐らくこれは日本人として最初の新彗星発見の輝かしい記録となったのである(それまで1928年の山崎正光氏によるクロムメリン彗星の発見や1931年の日系アメリカ人の長田政二氏による発見が存在するが)。

 しかし岡林、本田氏にとって不運が襲った。その年の12月、ついに日本は米英両国と戦争に突入し、間もなく本田氏は応召、岡林氏は地質調査のためスマトラ島に派遣される運命となったのである。
 岡林・本田彗星が発見されたころ、私は小学校低学年であった。その記事が例の少国民新聞で紹介され、また土陽新聞(高知新聞の前身)にも非常に大きな見出しで扱われていたことを憶えている。
 本田氏は従軍して露満国境付近に配備されたときも、ご夫人から心のこもった贈り物(2インチくらいの単眼)で国境の星空を観測したことは良く知られているが、その後部隊が南方に移ってからも天体観測に熱心で、南十字星の下でホウキ星を発見した話は前回述べたところである。
 このころ高知市の空にどんな星空があったのか、残念ながら私は興味を持っていなかったのでわからない。しかし唯の一度、星の記憶がある。それは1935〜6年頃だったと思う。幼少の私は夜中に小用に起きて庭に出た。父と共に雨戸を空けて中庭に一人で出たとき、飛びこんできたのは、まるで一面の埃のような星屑だった。低い日本家屋の入り組んだ、どんな微細な隙間にさえも無数の星屑が侵入し、空全体が異様な燐光を発しているかのごとく思われた。人口18万人の市街の空はまるで光害という言葉を知らなかった。これは恐らく全国的な現象であったろう。このような素晴らしい条件下に、本田氏が岡林氏が、そして外国ではアメリカのペルチャー氏が、南アフリカのリード氏が頑張っていたのだと思う。何と恵まれた時代だったろう!!
 やがて第2次世界大戦の終結から2年後の1947年、本田氏は無事帰還され、敗戦後の暗澹(あんたん)たる日本の空に光明をともされたことは周知の如くである。しかし一方岡林氏は本田氏とは対照的に不運な運命を辿った。終戦を目前にした1945年4月南方から病院船で帰国していた岡林氏は台湾海峡で米軍潜水艦の攻撃を受け、若き命は海中に深く消えたのである。(有名な阿波丸事件)
 これについてあまり知られていない不思議なエピソードがある。息子滋樹の帰りを今日か明日かと待ちわびていた母親は、ある晩不吉な夢を見た。
 暗い夜の海でシゲキが突然『お母さーん!』と叫んだ。驚いて小舟の上から海を見るとシゲキが溺れそうになりながら流されて行く。『シゲキ、早くつかまって!』と腰紐をほどいて投げたが、どうしたことかシゲキは一向にそれにつかまろうともせず、どんどんと沖に流されて見えなくなってしまった。
 というのである。「思えばあの時が滋樹の最後だったんですね」と母親は涙ながらに求懐していたと言う(本田実氏談)。

 人間の運命と言うものは一体何が支配しているのだろうか?それは神なのか、悪魔なのか?私はこの話を思い出す度に、その余りにも無情さに同情と深い燐憫の念を禁じえないものがある。
 人間がロケットで月に行く時代に、もはや怪談なぞ存在しない。しかし人間の世界では、科学の力では解明できない不可解な出来事があるのは事実である。私も、それに似たいくつかの事件の体験がある。しかし、それらの多くは天文とほとんど関係が無いので、この連載で紹介できないのは残念である。



Copyright (C) 1999 Tsutomu Seki. (関勉)